hana_da’s blog

推しが結婚したのでブログ始めました

伏線は好きだけど、回収できるとは言ってない

本日、某探偵アニメの映画に行きました。

公開2日目ということで、映画館はほぼ満席。

休日のため、家族づれや学生カップルもたくさんいました。

そんな中で私は一人で悠々自適に鑑賞。

映画はやっぱり一人で見るのが一番だよな、というのが私の持論です。

 

さて、今回は映画の感想共有、ではなく、物語全般の話をしたいと思います。

 

どの物語でもそうだとは思いますが、物語が綴られる時、

物語に出てくる全てには意味があります。

 

例えば、主人公が住む街の夜景が映し出されたり、

登場人物の一人が道端のバナナの皮で転けたりする時、

それらは全て意味があるからこそ綴られているものなのでしょう。

 

物語にはひとつたりとも意味のないものは存在せず、

ひとつひとつに何らかの意味が込められており、

それらの意味が物語上で分かりきったその時、

物語というものは終わりを迎えるのでしょう。

 

要は伏線回収ですよね。

伏線を貼ったなら、しっかり回収されなければ

うずうずしてしまうし、結局何だったんだ?ってなってしまうわけです。

 

私は伏線回収が好きなので、しっかり伏線が繋がると

ワクワクして胸がときめいてしまうのです。

だから逆に、伏線回収をしていない作品に出会ってしまうと、

楽しかったけど少し心残りだな。という気持ちになります。

 

結局は伏線回収が好きなんですよね。

伏線が回収された時のときめきを感じたいから、私は物語を読むんだと思います。

 

さて、伏線伏線と言っていると、ときめきを感じたくなりました。

今回はこの辺りで終わりたいと思います。

推敲する必要があります。

話が長い自分が嫌だ。

 

特にそれはメッセージ上だと顕著になる。

長い文章を書いた後、既読がついてすぐに返信がなかったり長時間放置されたりすると

酷く恥ずかしさや申し訳なさを抱いてしまい、

いつもの自分とは違う自分が現れてくる。

 

そんな自分が嫌で、できるだけ簡潔に言おうと試みるけど、

自分の考えを正確に伝えるためには文字を書かざるを得なくて。

結局出来上がった文章はまた長い文章。

 

これを送りつければ、私の意見や考えは全て送れたことになる。

だけど、意見や考えが全て送れたとは言っても、

決してそれは”相手に自分の意見が全て伝わった”ことにはならないことを

私は知っている。

 

送ったのは確かだけど、全て読んでくれるとは限らない。

メッセージ上での話し合いでありがちな問題点は、

普段対面であれば耳から得る情報を、全て目から得なければならない故に

長文が出された時、めんどくささを感じてしまって読み飛ばしてしまうこと。

そんなことない、っていう人もいるかもしれない。

だけど、私がそういう人だから。

きっと同じような人は少なからずいるのではないだろうか。

 

もっと上手くなりたい。

誰かと言葉を交わすとき、問題を話し合うとき、

できるだけ簡潔に、だけど自分の考えもしっかり伝えられるようになりたい。

 

そのためには、練習あるのみ。

そう思う今日この頃。

推しが結婚したのでブログを始めました

先日、推しが結婚しました。

 

推しが結婚するなんて正直ありそうでない話だよな〜、なんて世界の大谷さんが結婚した時に考えていたら、その三日後の桃の節句の日に推しが結婚しました。

 

正直今でも実感が湧いていないのです。結婚しました、とファンクラブから推し名義で連絡が来たり、テレビで結婚報道を見たりしているから、本当のことだとは理解しています。

 

だけど、ついこの前まで結婚の「け」の字も見当たらなかった推しから唐突に結婚の言葉が差し出されたんです。「これは夢なのか?」と思っても仕方がないと思うんです。

 

でもやっぱり推しは結婚していて、推しの顔を見るたびにその隣に誰かは分からないけど推しの奥さんがチラついてしまってちょっと悲しくなるんです。「みんなの推し」から「私たちが踏み入れることの出来ない領域に最愛の人を入れた推し」になった推しを見ると、前みたいに無邪気に推しに対して「好き」を伝えることが烏滸がましく思えてきてしまったんです。

 

きっと、「今まで通り推していいんだよ」と私の推しは言うと思います。絶対とは言い切れませんが、そう思っていると思います。

 

ただ、推しはそれでいいって言うかもしれませんが、私がそれでは無理なのです。

 

誰のものでもない「推し」から、誰かと共に人生を歩むために強固な誓いを立てた「推し」に変わってるのに、こちら側が今までと同じ熱で推していたら、きっとどこかで歪みが出来てしまう。それは初めは小さなものだったかもしれないけれど、時間が経つ度にどんどん大きくなっていき、最後には治すことができないほどの大きな歪みとなってしまうと思うんです。

 

だから、私は考えました。どうすれば、これから先も推しを長く応援できるのか、と。

 

 

そこで私は思いました。

「そうだ、ブログをしてみよう」

と。

 

 

前々から気にはなっていたんですが、どうしても後一歩のところで始めることが出来なかったブログ。それを、推しが結婚したのを機に始めてみようと思ったのです。

正直、どこまで続くかは分かりません。もしかすると、今回のブログで一発終了、なんてこともあるのかもしれません。

だけど、どういうわけか、ブログを書いていくことで推しとの向き合い方がより良い方向へと変わっていくのでは?と何となくですが思うのです。

 

私は心底飽き性なので、これからどうなるかは分かりません。

でも、今までとは違うことを始めた今の私は、少し前とは違う私になったのではないかと思います。

 

世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。
すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌する。
そして、きみ自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう

 

推しが結婚報告の際に用いたルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインさんの言葉だそうです。

実に推しらしい、素敵な言葉を選んだと思います。

そして、これを読むと私はやっぱり、推しのことが大好きなんだなと思うのです。

 

だって、私は推しが結婚したから、このブログを始めようと思ったのですから。

推しの変化が私の変化を作ったって、やっぱり私、推しのこと好きじゃんってなるんですよね。